
皆様の御浄財により建設を進めております、安倍晋三首相紀念公園、完成間近となりました。本当に皆様、感謝に感謝の言葉、尽くしきれません。
御浄財をお納めいただきました皆様のお名前を公開します!
皆様の御浄財により建設を進めております、安倍晋三首相紀念公園、完成間近となりました。本当に皆様、感謝に感謝の言葉、尽くしきれません。
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2025年1月15日~1月20日、昨年、公認漫画家ぐりあん先生が見つけました、海府大元帥麾下、島袋好雄大人命(33番 二番機銃長 上等水兵 伊江村出身)並びに高江州盛善大人命(125番 焚火員 機関兵長 沖縄市越来出身)のご遺族様までご挨拶、本年11月に開催予定の大慰霊祭への御招待、そして何らかの形での交流の可能性を見出すべく、第一回沖縄縣表敬訪問を行いました。
到着後、直ちに沖縄縣護国神社まで昇殿参拝しました。沖縄縣でのご遺族様発見の報告、並びに御神幟二振りを奉納しました。加治宮司はじめ、深く深く御礼を申し上げました。
翌日、島袋好雄大人命の生地、伊江島まで向かいました。伊江村役場に入り、内間常喜副村長まで表敬訪問致しました。伊江島から出征し、バシー海峡に17歳で散華した島袋好雄大人命のことを知る人は殆どいませんが、しかしながら台湾において、神様としてお祀りしておりますことを説明し、御神幟はじめ、台湾からの御礼品を捧げることができました。
アラ浜を望む、阿良の御嶽に参拝しました。
この御嶽は、島民が島から出る時、島に帰る時、必ず真っ先に参拝する大切な聖地です。無論、島袋好雄大人命も出征の日にここを参拝し、佐世保海兵団まで向かいました。
ご想像できますでしょうか…国民学校を卒業した少年が一人、ここから旅立ち、二度と帰ってこなかったことを…。
そして島袋好雄大人命のとぅとぅめ(位牌)に拝礼、み霊の御帰還が実現できました。
ご遺族様に御神幟、台湾からの御礼品をお贈りしました。
琉球新報の記者様がご同行され、翌日、同誌にて報道されました。
翌日、沖縄市越来まで、高江州盛善大人命の御遺族様まで表敬訪問…の予定でしたが、何故か連絡が取れず、残念な結果になりました。
越来自治公民館を通して、引き続き、ご遺族様と連絡を取るようにいたします。
沖縄縣より出征されました海府大元帥麾下の部下は八柱です。現在と違い、当時は佐世保海兵団まで片道一週間必要でした。
彼らは帰る事なく、親族とも会えず、皆、バシー海峡の華となりました。
どうか記憶して欲しい。
彼らが家を出た時と同じ光景が、今も広がっていることを。
海󠄀軍大學校󠄁台湾・高雄で外務大臣表彰式 バシー海峡戦没者慰霊祭実行委員会などに表彰状
日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会は16日、2024年度外務大臣表彰の授賞式を南部・高雄市内で行い、バシー海峡戦没者慰霊祭実行委員会と潮音寺管理委員会に対して同協会の奥正史高雄事務所長が表彰状を手渡した。日本と台湾との相互理解の促進に貢献したことが評価された。
両団体はいずれも台湾の南のバシー海峡で第二次世界大戦中に命を落とした戦没者の慰霊に取り組んでいる。交流協会によれば、潮音寺管理委員会は慰霊施設として1981年に建立された潮音寺を管理している。遺品の管理や展示なども行い、バシー海峡での惨劇を後世に伝えている。慰霊祭実行委員会は2015年に台湾在住の日本人らによって設立。潮音寺管理委員会と共同で慰霊祭を開催してきた。
潮音寺管理委員会の鍾佐栄委員長はあいさつで、真に表彰を受けるべきなのは寺を建立した故人の中嶋秀次さんだと言及。戦時中にバシー海峡で12日間漂流した末に生還した中嶋さんが、救助されるまでの間に聞こえた仲間たちの助けを求める声を30年以上忘れられず、慰霊のために寺を建立したと説明した。
慰霊祭実行委員会の渡辺崇之委員長は、特殊な外交問題などを背景に、日本政府はバシー海峡でのみ慰霊祭を行うことができていないとした上で、同委員会が外務大臣表彰を受けたことはバシー海峡における戦没者が初めて国に認められた証明のようなものだとコメント。バシー海峡の存在すら知らない日本人が未だに多いため、委員会の使命はまだ道半ばだとの考えを示した。
今年の慰霊祭は17日に屏東県の潮音寺で行われたという。(フォーカス台湾より転載)
哨戒艇38号(駆逐艦蓬)、海府大元帥麾下145柱が眠るバシー海峡。保安堂にとりましても、ご縁あります潮音寺・バシー海峡戦没者慰霊祭実行委員会のこのたびの表彰、深くお祝い申し上げます。
表彰式に保安堂も参加いたしました。
バシー海峡に眠る英霊をいつまでも…。
大正12(1923)年5月20日、沖縄県中頭郡越来村字越来にて、父松榮、母カマの間で、三人兄弟の次男として生を受ける。ここから戦死時、享年21歳。
どのような経緯で帝国海軍に奉職されたのかについて現在調査中であるが、尋常小学校卒業後に佐世保鎮守府海兵団に入団。
この写真の裏に、昭和17年4月21日、「鎮海防備隊」所属と記されている。
長男は若い時に亡くなっており、現在、三男が英霊の位牌(とぅとぅめ)を祀られている。
大正15(1926)年12月15日、島袋久榮様の長男として、沖縄県国頭郡伊江村字西江前65番にて生まれる。
島袋久榮様は島袋好雄大人命が御幼少の頃、兄の島袋鎌助様に預け、フィリピンまで事業家として渡航(同地で事業に成功)。その後、島袋鎌助様は島袋好雄大人命を養子として迎えた。
当時を知る、従兄弟様(島袋大人命出征時の記憶あり)曰く、国民学校卒業後海軍に志願、佐世保鎮守府の海兵団に入る(義父島袋鎌助様の元、昭和16年に入団)。
なお、実父久榮様はその後、大東亜戦争において、フィリピンにて戦火に巻き込まれ、死去。
現在、同村において、甥の島袋良夫様ご家族様が御位牌(とぅとぅめ)をお祀りしている。
享年17歳。
令和6年4月14日、佐賀県におきまして、海府大元帥麾下、砲台部下士官 上等兵曹であります彌五郎丸保大人命のご親族様を正式に確認することができました。
昨年の高田鳴海先生のご来訪から、私共紅毛港保安堂では、残り144柱のご遺族様、ご親類様、ご縁者様を一人でも多く探し出し、弊堂までお迎えしたいとの大願を立てました。
あれから半年弱経過しましたが、昨今の個人情報保護法、そして戦後の長い年月から、ご関係者様の高齢化などの諸問題から、なかなか前に進むことができませんでした。
その中で、弊堂公認漫画家でありますぐりあん先生が、特別なルートなどから独自に調査され、今年頭に「もしかしたら…」という情報を得られ、日本経済大学准教授久野潤先生、佐賀県護国神社まで確認したところ、その可能性が一気に高まり、今回訪問されて、最終的に直接のご遺族ではありませんでしたが、深いご親類であることが確認された次第です。
なお、彌五郎丸保大人命の一人娘であります古賀恵子様(久留米市在住?)と、孫お二人について調査中です。また、軍歴につきましても、確認次第、本ホームページにて更新いたします。
万歳三唱!
大正2年(1913)年10月23日
佐賀県(現在)多久市にて、父作太郎、母ミツとの間で、四人兄弟の末っ子として生を受ける。
どのような経緯で帝国海軍に奉職されたのかについて現在調査中。
昭和18(1943)年9月12日
中尾ヒロと結婚。一女もうける(名は恵子)。
昭和19(1944)年11月25日 午前1時15分頃
サブタン島アハウ岬南西5km地点付近(北緯20度14分 東経121度50分)にて、アメリカ合衆国海軍潜水艦アトゥル(USS Atule, SS-403)号の攻撃により戦死。
彌五郎丸家の血脈は長男を中心に続いている。
戦後、どのような経緯か不明であるが、一人娘の彌五郎丸恵子は養子に出される(養子先の家族姓は不明)。高校卒業後、結婚(古賀恵子)、久留米市に在住し、娘二人(彌五郎丸保大人命直孫)を生むが、現在、全員行方不明の状況。
本日、一般社団法人日本令和研究所ご一行様が、弊堂までお越しになられました。
日本令和研究所は、日本国における皇位継承に伴う諸儀式、特に大嘗祭に関する情報の収集、調査、皇室に関する制度及び法律とその運用に関する分析など、大変貴重にして大切な研究をなされております機関です。
今回は令和5年台湾研修の一環としてのご訪問です。
安倍元首相銅像への献花、紅毛港保安堂の主神であります高田又男艦長麾下144柱の英霊へのご参拝などを通して、台湾と日本の過去、現在、そして未来に向けて、伝統を基とした将来図について、意見交換できました。
お越しいただきまして本当にありがとうございました。是非また、保安堂までいらっしゃってください!いつでも大歓迎です!
本日朝九時、茨城県より大勢の日本観光団体ご一行様が、弊堂までお越しになられました。
安倍元首相銅像への御献花、そして保安堂の歴史、「海府大元帥」御縁起、台湾と日本の深いつながりについて熱心にお聴きになられました。
台南に鎮座しております「飛虎将軍」様は、茨城県水戸の英雄でした。保安堂と飛虎将軍廟との繋がりは特にありませんが、共に台湾と日本を繋ぐ橋として、更に努力していきたいです。
お越しいただきまして本当にありがとうございました。是非また、保安堂までいらっしゃってください!いつでも大歓迎です!