台湾と日本、そして保安堂

台湾と日本の繋がりは、長きにおいて不思議な合縁奇縁で結ばれております。


歴史に置きまして、この二つの国が深く繋がりましたのは、皆様におかれましてよくご存じの台湾統治時代(1895年[明治28年、光緒21年]4月17日からる1945年[昭和20年、民国34年]10月25日)でした。
台湾では様々な立場から、この期間をいろんな名称で表現しておりますが(例:「日治時代」「日據時代」「日本殖民時期」)、保安堂では親しみと懐かしさを込めて「日本時代」と呼ばせていただきます。

日本時代、良きにつけ悪しきにつけ、様々な出来事がありましたが、台湾を心の底から愛した日本人により、台湾に多くの日本による近代化の種子が撒かれ、育まれ、台湾人も日本人もより良い未来を見つめ、共に手を携え、大いなる坂を駆け上がる、そんな姉妹以上の関係でありました。

台湾のある場所では、立派な髭をたくわえた一人の日本人巡査が道路を掃除し、子供たちに勉強を教え、衛生医療の普及に努めました。
ある場所では六人の日本人教師が、治安の悪化にも恐れることなく教壇に立ち続け、将来羽ばたく台湾人の子供たちに教えることを止めようとはしませんでした。
二人の日本人農業技師が台湾の風土でも伸びやかに育つジャポニカ米の開発に成功しました。
台湾を製糖王国にした日本人、不毛の地だった嘉南平原を肥沃な稲作地帯にもたらしたダムを建設した日本人、紅茶やコーヒー栽培に成功した日本人、インフラ整備を行いマラリア禍予防を指導した日本人。

大東亜戦争になりますと、被弾した戦闘機から離脱することなく(パラシュートで離れれば助かる可能性がありましたが、その場合、戦闘機が街中に墜落して被害が出ることを恐れての決断)不時着し戦死したパイロット。フィリピンで台湾人警察隊を率いてた日本人隊長は、戦いの末期、上層部から全員自決の命令を封じ、部下の台湾人全員を生かして帰させ、その責任を自ら自決した出来事がありました。

様々な立場で、様々な目的や思惑こそありましたが、彼ら全員にあったのは、台湾を誰よりも深く愛する心意気です。

さて、高雄市西部に位置し、南シナ海に面する左營區という地域があります。現在では、台湾高速鐡道(台湾新幹線)の終着駅・左営駅がある場所として有名ですが、歴史は大変古く、鄭成功時代に軍事基地を設けたことから始まります。

日本時代に軍港として開発され、南方防衛の拠点として大日本帝国「高雄警備府」が設置されました。大東亜戦争後、中華民国海軍に接収されましたが、今でも当時の建物が大事に使用されています。

そしてここ高雄こそ、「駆逐艦蓬(第三十八号哨戒艇)」が錨をおろし、「海府大元帥」である高田又男艦長、以下145柱の英霊が愛してやまなかった場所なのです。